展覧会

リニューアル記念名品展 + 杉本博司「海景-ATAMI」

2017.02.05(日) - 2017.03.14(火)

概要

展覧会

MOA美術館 リニューアル記念名品展 +杉本博司「海景-ATAMI」

終了しました

リニューアル記念名品展
+ 杉本博司「海景 - ATAMI」

2017年2月5日|日| – 3月14日|火|

開館時間
9時30分– 16時30分 (入館は16時迄)
休館日
会期中無休
観覧料
一般1600(1300)円
高大生1000(700)円・要学生証
中学生以下無料
65才以上1400円・要身分証明
*( )内は10名以上の団体料金

概要

Over View

MOA美術館は、約11か月に及ぶ改修工事を経て、2017年2月5日にリニューアルオープンを迎えます。展示スペースの設計は、世界的に活躍する現代美術作家・杉本博司氏と建築家・榊田倫之氏によって主宰される「新素材研究所」が手がけました。屋久杉、行者杉、黒漆喰、畳、など日本の伝統的な素材を用いつつ、展示される作品の美を最大限に生かす展示空間を創出しています。
本展はリニューアルオープンを記念し、創立者・岡田茂吉のコレクションの中から厳選した日本・中国美術の名品を展覧するものです。さらに、杉本博司氏の代表作「海景」シリーズの中から、熱海の海を撮影した「海景-ATAMI」や映像作品「加速する仏」などもご紹介します。
尾形光琳の代表作として知られている国宝「紅白梅図屏風」や、京焼の大成者 野々村仁清の茶壺の中でも最高傑作として名高い国宝「色絵藤花文茶壺」等、永く愛された日本美術の精華を、新しい展示空間で是非ご堪能ください。

みどころ

尾形光琳筆 国宝「紅白梅図屏風」 1年振りの大公開!

琳派の大成者である尾形光琳の代表作として知られている国宝「紅白梅図屏風」を1年ぶりに公開します。樹齢数百年の行者杉を框とし、畳が敷かれた新しい展示ケースで、当館屈指の名宝をご鑑賞下さい。

新たに誕生した特別室で「色絵藤花文茶壺」を観る!

このたびのリニューアルでは、野々村仁清の茶壺の中でも最高傑作として名高い 国宝「色絵藤花文茶壺」を鑑賞するための特別な展示室を作りました。壁面に江戸黒とも呼ばれる深みのある黒漆喰を使用した現代的な空間で、永く愛されてきた国宝をご堪能ください。

杉本博司「月下紅白梅図」を再び展観!

2015年に開催した「尾形光琳300年忌記念特別展 光琳アート 光琳と現代美術」のために、杉本博司氏が国宝「紅白梅図屏風」を撮影し、新たに制作した作品「月下紅白梅図」を再び展観します。

美術館所蔵の仏教美術と杉本博司「加速する仏」とのコラボレーション!

杉本博司氏が10年以上にわたって取り組んだ京都三十三間堂の千手観音の撮影を元に制作された映像作品「加速する仏」とMOA美術館所蔵の仏教美術の名品を一堂に展示します。

熱海の海をテーマにした杉本博司の海景作品を公開!

杉本博司氏の名を世界的に知らしめた代表作「海景」シリーズの中でも、熱海の海を撮影した「海景-ATAMI」を展観します。

主な展示作品

Exhibition Works


日本美術

重文

平兼盛像(佐竹本三十六歌仙切)

鎌倉時代 13世紀

現存する歌仙絵のうち、秋田藩主佐竹家に伝来した佐竹本と呼ばれる2巻の歌仙絵巻が最も古いものとされる。本図の平兼盛像は、上巻の最後に描かれていた。平安時代末期に始まる人物描写の個性的な表現は、鎌倉時代に入っていっそう各人物の特徴をよく示すようになり、似絵と呼ばれるようになるが、その代表的なものがこの佐竹本三十六歌仙絵巻である。目鼻立ちには簡潔で的確な線が伸びやかに施され、眉の描写では細線を数回引き重ねて豊かな表情が表されるなど、優れた技巧を示している

重文

洋人奏楽図屏風

桃山時代 16世紀

桃山時代、キリスト教の伝来とともに、当時宣教師たちによって運営されたコレジオやセミナリオなどの学校では、信徒子弟への体系的な教育が行われ、セミナリオでは絵画教育も行われていた。ヨーロッパ絵画の主題や技術が、主に聖画や銅版画を中心に教授されたらしく、この屏風も、キリスト教の布教効果をあげるべく、洋画教育を施された日本人によって描かれたものであろう。港の見える丘陵で音楽を楽しみ、読書や雑談をする洋人の光景を描いたもので、羊のいる樹木、愛の神殿、城郭などは、いずれも西洋中世銅版画に描かれた題材である。しかし、日本の顔料を胡桃油か荏油に溶いて油絵の効果を出し、以前の日本画には見られない陰影のある立体表現など、外来技法習得の跡が見られ、日本絵画史上特異な画風として注目される。

紅白梅図屏風

国宝

紅白梅図屏風

尾形光琳

江戸時代18世紀

光琳が宗達に私淑し、その画蹟に啓発されながら、独自の画風を築き上げたことはよく知られている。水流を伴う紅梅・白梅の画題や二曲一双の左右隻に画材をおさめる構成のやり方がそれである。しかし、白梅の樹幹の大部分を画面外にかくし、紅梅は画面いっぱいに描いて左右に対照の妙をみせ、中央に水流をおいて末広がりの微妙な曲面をつくり上げた構図は、光琳の独創ということができよう。後に光琳梅として愛好される花弁を線描きしない梅花の描き方や蕾の配列、樹幹にみられるたらし込み、更にほかに類を見ない卓越した筆さばきをみせる水紋など、こうした優れた要素が結集して、画面に重厚なリズム感と洒落た装飾性を与えている。本屏風が光琳画業の集大成であるといわれる所以であろう。向かって右隻に「青々光琳」、左隻に「法橋光琳」と落款があり、それぞれ「方祝」の朱文円印が捺されている。光琳晩年の作と思われ、津軽家に伝来した。
平成23年、デジタル顕微鏡、ポータブル蛍光Ⅹ線分析装置、ポータブル粉末X線回折計による科学調査の結果が報告された。その結果、屏風全体を占める金地には金箔が用いられていることが確認された。水流の部分には一面に銀が残存し、黒色部分より硫化銀が検出されたことから、銀箔を硫黄で硫化させて黒色に変化させたことが推測される。

重文

湯女図

江戸時代 17世紀

近世に入り、庶民の風俗生活が主要な画題の一つになると、狩野(かのう)派などの正統派の技法を身につけたと見られる絵師ばかりでなく、次第にその主流が町絵師の手に移り、描写形式も、祭礼などの群衆描写から少人数の群像、さらに一人立ちの人物像へと変化していく。本図は、京や江戸で元和・寛永年間(一六一五~四四)に流行した湯屋で働く六人の湯女を描いている。湯女は、初めは客の垢を流し髪を洗うのを仕事としたが、次第に容色を飾り、客の酒食の相手をするようになった。衣裳文様の華麗な美しさは、この時代の風俗画の特徴で、図中向かって左から二人目の湯女の着物に、篆字風の「沐」の字の柄が見られるのも興味深い。また、顔の生き生きとした表情は写実的であり、中央にふところ手をして闊歩する遊女を中心に、五人の女性を配した構図も見事で、これら湯女たちの街を連れ立って歩く描写は、のちの寛文期美人画に見られる優艶な理想化とは違い、生命力にあふれている。団家旧蔵。

重文

雪月花図

勝川春章

江戸時代 18世紀

勝川春章(1727~92)は江戸中期の浮世絵師で、勝川派の祖。版画・版本にも優れた作品を多数残し、特に役者絵においては、それまでの鳥居派の典型を破って、写実的似顔絵を始めた。また、肉筆画の技量は浮世絵師中第一級と賞される。本図は、雪月花の三幅対を平安王朝の三才媛の見立絵とし、これを当世市井の婦女風俗に描き替えている。向かって左の幅は、清少納言の「香炉峰の雪は簾をかかげて見る」という故事を、武家の奥方風の女性として描き、中央の幅は、武家の娘風の女性を、石山寺で机にもたれて筆をとる『源氏物語』の作者紫式部に見立てている。また、向かって右の幅は、「花の色はうつりにけりな いたづらに 我が身よにふる眺めせしまに」と詠んだ小野小町を、芸者として描いている。中央の幅の女性像は、衣裳などが彫塗りによる重厚な描き方であるのに対し、左右の幅では暢達な線描が実に軽妙で、江戸好みの髪型や衣裳の美しさが見事にとらえられている。

重文

継色紙

伝 小野道風

平安時代 10世紀中期

『万葉集』や『古今和歌集』などから秀歌を撰した未詳の歌集の断簡である。本来は色紙ではなく、粘葉装(でつちようそう)の冊子本であった。約二十首が現存し、そのうち十六首半が、明治39年(1906)まで升形の冊子本として、加賀大聖寺の前田家に伝存していた。見開きの部分のみに料紙二枚にわたって和歌が一首書写され、ちょうど色紙を継いだように見えるので継色紙と呼ばれる。継色紙の名称は、江戸時代後期の『古筆名葉集』(文化元年〈1804〉刊)や『増補新撰古筆名葉集』には見えないので、比較的新しい時期に名づけられたものと思われる。本図の一葉は、『古今和歌集』巻第十七雑上の歌で、自然な趣きのある、余白美を十分に生かした散らし書きは見事である。また、独特の草仮名を使用しているのにも特色がある。ことに「家」(か)・「散」(さ)・「露」(ろ)・「類」(る)などの字である。継色紙は、三色紙の一つとして古筆中、屈指の優品であり、茶室の掛物としても愛玩され珍重されてきた。

色絵藤花文茶壺 MOA美術館

国宝

色絵藤花文茶壺

野々村仁清

江戸時代17世紀

野々村仁清(生没年不詳)は丹波国桑田郡野々村(現、京都府南丹市美山町)の出で、本名を清右衛門という。瀬戸で轆轤の修業を積み、洛西の仁和寺門前に御室窯を開いた。「仁清」という号は、仁和寺の仁と清右衛門の清を合わせたもので、仁和寺を中心とする貴顕たちと交流を深め、それらの人々の求めに応じて華麗で典雅な作品を数多く残している。特に、後水尾院を中心にした宮廷サロンとの仲介役をなした茶人金森宗和とのかかわりの中で、野々村仁清は優美な陶器を次々と生み出した。仁清の作品は、巧みな轆轤の技術と華麗な上絵付けに支えられた、茶壺、水指、茶碗、香炉、香合などの茶道具で占められているが、その代表作といわれるものが色絵の茶壺である。この色絵藤花文茶壺は、仁清の茶壺の中でも最高の傑作として名高く、京風文化の象徴的作品ともいえる。温かみのある白釉地の上に、咲き盛る藤花が巧みな構図で描かれており、花穂と蔓は赤や紫・金・銀などで彩られ、緑の葉には一枚一枚葉脈を施している。総体が均等に薄く挽き上げられた端正な姿は、色絵の文様とほどよく調和しており、下部の土見も壺全体のバランスをよく保っている。底裏に「仁清」の小判形の大印が捺されている。丸亀藩・京極家伝来。

重文

色絵桃花文皿

鍋島

江戸時代 17世紀後期〜18世紀前期

鍋島藩の直営になる鍋島焼は、わが国の諸窯の中でも最も精巧な磁器を生産し、今日なお声価が高い。なかでも本図のような桃花の図柄を扱った大皿は、色絵鍋島の精緻な技巧を遺憾なく発揮した名作として古来名高い。一般に尺皿といわれる大皿で、やや深い立ち上がりをもつ正円の皿に、高い高台がつき、透明性の白釉がかかっている。釉下に染付で、葉をつけた桃の実3個と、花をつけた桃の樹を描き、地に淡い呉須を施している。桃の花と葉をつけた桃の実は、赤・黄・緑などの上絵付けで彩られている。桃の実は、染付の線描の上をなぞって赤で縁取りし、薄く染濃みをして陰影をつけ、左右の2個にはさらに赤で細かい点描を無数に打っている。皿の縁を白くくっきりと残しているのも鍋島らしい配慮で、裏面には三輪の花をもつ牡丹の折枝文を伸びやかに三方に配し、畳付にかけてややすぼまった高台側面には七宝繋ぎ文をめぐらしている。

重文

樵夫蒔絵硯箱

伝 本阿弥光悦

江戸時代 17世紀

蓋の甲盛りを山形に高く作り、蓋と身の四隅を丸くとったいわゆる袋形の硯箱である。身の内部は、左側に銅製水滴と硯を嵌め込み、右側を筆置きとし、さらに右端には笄(こうがい)形に刳(く)った刀子入れを作る。蓋表には、黒漆の地に粗朶を背負い山路を下る樵夫を、鮑貝・鉛板を用いて大きく表す。蓋裏から身、さらには身の底にかけて、金の平(ひら)蒔絵の土坡(どは)に、同じく鮑貝・鉛板を用いてわらびやたんぽぽを連続的に表し、山路の小景を表現している。樵夫は、謡曲「志賀」に取材した大伴黒主を表したものと考えられる。樵夫の動きを意匠化した描写力や、わらび・たんぽぽを図様化した見事さには、光悦・宗達合作といわれる色紙や和歌巻の金銀泥下絵と共通した趣きがみられる。また、鉛や貝の大胆な用い方や斬新な造形感覚からは、光悦という当代一流の意匠家が、この制作に深くかかわっていることが感じられる。原三渓旧蔵。

中国美術

高士観月図

伝 馬遠

南宋時代13世紀

主要な景物を対角線の片方に寄せ、遠景をほとんど描かず、余白を大きくとって画面に余韻をもたせる構図は、中国では残山剰水と呼ばれ、南宋時代馬遠一派の画人が得意とした様式であった。このような辺角的な構図による作画様式は在野の職業画家にも受け継がれ、特に浙江地方の職業画家たちの間では永く継承されていたようである。作者に擬せられている馬遠は、南宋の光宗(在位1189~94)・寧宗(在位1194~1224)の時代を活躍期とする、南宋宮廷画院の代表的画家である。黒田家旧蔵。

叭々鳥図

伝 牧谿

南宋時代12〜13世紀

わずかに葉の残る梢に叭々鳥が止まり、首を巡らして羽を休める姿を略筆で描き、静寂な感じを厳しい水墨の濃淡のみで表すなど絶妙な筆致で描かれている。光沢のある墨色の特徴などから、作者は画僧牧谿に擬せられている。本図は、添付の覚書によれば、もと織田信長が所持していた二幅の内の一幅で、本能寺の什物として伝来したという。左下隅に「牧谿」の白文方印、右下に「天山」の二重郭朱文方印が捺されている。天山は足利義満の号で、本図が室町幕府の御物であったことを物語っている。

重文

無準師範墨跡「帰雲」二大字

南宋時代 13世紀

無準師範(仏鑑禅師 1178~1249)は、中国南宋時代の禅林中、最も傑出した禅僧である。中国五山第一の径山万寿寺の第三十四世を嗣席し、止住すること二十年、法幢を高く掲げて内外に名声を馳せた。また、時の皇帝理宗に召されて禅の要諦を説き、仏鑑門照禅師の号を賜った。わが国の学僧も多くこの門下に参学し、京都東福寺開山弁円円爾(べんえんえんに)(聖一(しょういつ)国師)がその法を嗣いだことは特に有名である。この因縁により、東福寺には円爾へ贈られた無準の墨跡が多く伝来し、額字十九点などが現存している。正和5年(1316)に作成された東福寺古文書の『仏鑑禅師御筆額字目録』には四十六点の額字の名が見え、古く寺外に出たものが少なくないことがわかる。本図の墨跡も、そのうちの一つと思われ、堂額などに用いる原本と推定される。後に徳川家の柳営御物として伝来した。

重文

青磁大壺 郊壇官窯

南宋時代 12〜13世紀

中国で宮廷御用品を焼いた直営の窯を官窯と呼び、北宋時代には汝官窯・北宋官窯があった。靖康2年(1127)、金の侵入を受けて南にのがれ、紹興8年(1138)に都を臨安(杭州)に遷して以降、すなわち南宋時代には、まず修内司官窯、次いで郊壇窯(新官窯とも称される)が設けられた。新官窯は杭州市の南郊の烏亀山麓に設けられ、修内司官窯に劣らぬ優れた青磁を焼いた。付近に郊壇(皇帝が天を祭る壇)があったところから、郊壇下官窯あるいは郊壇官窯と称された。また素地が陶質であるため、釉の全面にわたって不規則な貫入が縦横に走り、その中にさらに細かい貫入が見られる、いわゆる二重貫入となり、それらが釉面に変化を与え、釉の色合いをいっそう引き立てている。この壺は郊壇窯としては稀に見る大作で、きわめて高い高台をもち、豊かな張りのある姿で格調が高い。碧玉を見るような釉色をし、手にとると意外なほど軽い。郊壇官窯の優れた作行きが凝縮しているのを見る思いがする。

仏教美術

重文

過去現在絵果経断簡

奈良時代 8世紀

『過去現在因果経断簡』は、釈迦の前世の物語と生涯を内容とした四巻からなる経典であるが、その経文の上に内容を絵解きしたものを絵因果経と呼び、八巻よりなる。この断簡は益田家旧蔵本の分かれで、「絵因果経」巻第四の一部、四紙八十四行、「初転法輪 (しょてんほうりん)」より「度三迦葉(さんかしょうをどす)」までのおよそ八段にあたる。  絵因果経は、奈良時代天平年間中期頃(八世紀中期)に、祖本が中国からもたらされ、幾種類か書写制作されたと考えられる。衣裳表現や、樹木・岩山などによって場面を区切る構成法などは、中国六朝時代の画風をしのばせるが、人物描写に見られる丁寧な描調などには日本画家の感受性が窺われる。

重文

妙法蓮華経 授記品

平安時代 12世紀

平安時代以降、妙法蓮華経は数多く書写され、日本の写経の中で最も多いのがこの妙法蓮華経である。妙法蓮華経は、その写経の功徳によって自身や一族の救済と成仏を願う者が多かった。特に平安時代後期には、華麗な装飾を施した、いわゆる装飾経が数多く書写された。本図の経は、装飾経の典型的な一例で、見返絵には、庭に咲く満開の桜を前に、縁先で語りあう男女の貴人を描いている。桜樹や庭の水の流れ、土坡の表現には、古い大和絵の技法が示され、人物の表情は、『源氏物語絵巻』などにも見られる引目鉤鼻の描き方で、いずれも平安時代後期の王朝文化の香りを色濃く漂わせている。料紙は、表裏ともに金銀の霞引・切箔・砂子などを散らし、欄外の上下には、さらに草花文を描いている。本文は一行が17字、114行にわたり、金銀泥の界線の中に謹厳に書写されている。

重文

金銅観音菩薩立像

中国・隋時代 6世紀

細身の体躯に重々しい瓔珞をつけた菩薩形の立像で、細かい細工を施した宝冠の中央に化仏(如来坐像)をつけるところから観音菩薩であると考えられる。宝冠は中国六朝時代以降によく見られる三面頭飾の発展した形のもので、耳の上に大きな花文が見える。右手は肩まで上げて宝珠を捧げ、左手はまっすぐ下げて天衣の端をとる。瓔珞は太く、腰裳を飾る装飾とともに細身の体躯を華麗に縁取っている。両肩には大きい宝珠がつけられ、その下を流れるように下がった垂髪は、腕の両脇で二つの蕨手を形作っている。この像で最も目を引くのは宝珠形をした美しい光背で、中央の透かし彫りの部分には複雑な唐草文様の上に七仏を配し、外周には火炎光がめぐらされている。少し反り身にした体躯や左右相称の形に六朝仏の様式が残るが、穏やかで丸みを帯びた相好と自然に垂下した天衣の表現から見て、隋時代の典型的作例といってよい。

重文

聖観音菩薩立像

奈良時代 8世紀

観音は、元来阿弥陀如来の脇侍であったが、後に33の姿に変化することが説かれるようになって、その基本的な姿を聖観音と呼ぶようになった。聖観音像は、若干の例外もあるが、宝冠中に阿弥陀如来の化仏を戴くのを定型としている。この像は頭部に三面宝冠をつけて立つ菩薩像で、宝冠正面の龕中に如来坐像が表されており、左手に蓮華の蕾を持ち、右手の先は首から下がった瓔珞を執る。頭頂部から台座までを一木から彫り出す技法で制作された檀像で、ほぼ直立しているが、腰には少し動きが見られる。量感ある体躯の表現、衣や宝飾の緻密な彫り出しの技法に盛唐様式の影響が窺えるが、面相や体部の表現などは、柔らかく穏やかで、仏像彫刻における日本的特色を見ることができる。こうした特色から、奈良から平安時代にかけて制作された檀像彫刻における8世紀の作例と思われ、延暦寺伝来の伝承とともに貴重な観音像である。

重文

阿弥陀如来及両脇侍坐像

平安時代 12世紀

上品下生印を結ぶ阿弥陀如来を中尊とする阿弥陀三尊像で、左脇侍は蓮華を捧げ持つ観音菩薩像、右脇侍は合掌する勢至菩薩像である。中尊の上品下生印は来迎印ともいわれ、阿弥陀如来が往生者を来迎する際の象徴的な印相であり、それに合わせるかのように両脇侍も跪坐の形をとっている。この来迎三尊の遺例は少なく、京都大原三千院往生極楽院本尊など数例が見られるだけである。光背は、内側にパルメット文様を配した二重円光、外側に音声菩薩を透かし彫りした舟形の飛天光を配したもので、美しく繊細な感じを与えている。この穏やかな作風は定朝様と呼ばれ、平安時代後期の11世紀半ばに仏師定朝によって完成され流行した様式である。本図の像はこの定朝様を手本として造像されたもので、実際の制作年代は12世紀後半であろう。平安時代後期の末法思想の流布と浄土信仰の隆盛によって制作された来迎阿弥陀像の一例として貴重である。

杉本博司

紅白梅図屏風

加速する仏像

杉本博司

1997

杉本博司氏が10年以上にわたって取り組んだ京都三十三間堂の千手観音の撮影を元に制作された映像インスタレーション作品。

月下紅白梅図屏風

月下紅白梅図屏風

杉本博司

2015

2015年に開催した「尾形光琳300年忌記念特別展 光琳アート 光琳と現代美術」のために、国宝「紅白梅図屏風」を撮影し制作した作品。

海景 - ATAM 杉本博司 MOA美術館

海景 - ATAMI

杉本博司

1997

杉本博司氏の代表作「海景」シリーズのうち、熱海の海を撮影した作品。


杉本博司

杉本博司

1948年、東京生まれ。
1970年に渡米し、アート・センター・カレッジ・オブ・デザイン(L. A.)で写真を学び、1974 年よりニューヨーク在住。
明確なコンセプトに基づき、大型カメラで撮影された精緻な写真作品を制作し、国際的に高い評価を確立、2001年ハッセルブラッド国際写真賞、2009年高松宮殿下記念世界文化賞など。
近年は執筆、設計へも活動の幅を広げ、2008年建築設計事務所「新素材研究所」を建築家・榊田倫之と設立。
「IZU PHOTO MUSEUM」(2009年・静岡)や「London Gallery」(2009、2011 年・東京)など。
2017年秋にはランドスケープ全体を設計した小田原文化財団施設 江之浦測候所も開館予定。


開催情報

会期
2017年2月5日|日| – 3月14日|火|
開館時間
午前9時30分– 午後4時30分(入館は午後4時迄)
休館日
会期中無休
観覧料
一般1600(1300)円
高大生1000(700)円・要学生証
中学生以下無料
65才以上1400円・要身分証明
* ( )内は10名以上の団体料金
* 障がい者手帳をお持ちの方と付き添い者(1名のみ)半額
* 前売り券は、お近くのコンビニエンスストア (セブンイレブン、ローソン、ファミリーマート、サークルK サンクス)、チケットぴあイープラスでもお求めいただけます