箱根美術館の創立者であり、後のMOA美術館の基礎を築いた岡田茂吉は、前半生を実業家として、そして後半生は宗教家として、明治・大正・昭和期の日本に希有な足跡を遺しました。
幼年期から骨董・絵画に深い関心を寄せていた岡田茂吉は、日本画家を志して岡倉天心が創設した東京美術学校(東京芸術大学美術学部の前身)に入学しますが、病により絵画修業を断念します。
健康を快復してからは、蒔絵制作に打ちこむなど工芸技法の習得に努め、簪・笄など婦人装身具の意匠考案と販売事業で成功し、各種博覧会でも高い評価を得て、青年実業家としての地位を確保しました。
しかし、身辺の不幸に重ねて関東大震災、世界恐慌などにより事業も傾き、苦悩の裡に日々を過ごしました。そのような生活から脱するために哲学・思想・宗教の研究に没頭した岡田茂吉は、優れた美術品は人間の本質に強く働きかけ、広く社会人心を陶冶し、健全な社会を形成するという芸術的境地に到達します。
病貧争の克服と理想世界の実現を目指し、芸術の体験によって人の情操が高まる美のひな型を建設し、その中心に日本文化を世界に発信する美術館を創設することが、岡田茂吉の終生の願いでした。

創立者 岡田茂吉について

1882(明治15年)東京都台東区橋場に生まれる。生家は江戸時代より代々続く富裕な質屋「武蔵屋」(12月23日)
1897(明治30年) 15歳東京美術学校(現東京藝術大学)入学。後に眼疾のために中途退学
1905(明治38年) 23歳東京都中央区八重洲に小間物小売商「光琳堂」開業
1907(明治40年) 25歳東京都中央区京橋に装身具卸商「岡田商店」を開業
この頃、東京美術学校在学時の校長であった岡倉天心を訪問し、下村観山、木村武山らと日本美術の将来や琳派について歓談
1914(大正3年) 32歳東京大正博覧会に自らデザインした簪を出展、銅賞受賞
1915(大正4年) 33歳装身具「旭ダイアモンド」の特許を取得、当時の流行となる。この他世界九か国の特許を取得。
他に、11件の実用新案を取得。岡田商店の隆盛期を迎える
1919(大正8年) 37歳取引銀行が倒産、事業に大打撃を受ける
1920(大正9年) 38歳岡田商店再建のために出資者を募って株式会社とするも、世界的な「戦後恐慌」に苦しむ
1923(大正12年) 41歳関東大震災のため事業に打撃
1935(昭和10年) 53歳大日本観音会発会(1月1日)
東京都世田谷区上野毛「玉川郷」(後の宝山荘)に移転(10月1日)
1936(昭和11年) 54歳病なき世界を目指して大日本健康協会発会(5月15日)
1937(昭和12年) 55歳自然農法の研究を開始
1944(昭和19年) 62歳箱根強羅へ移転。自然美と人工美の調和した芸術世界のひな型「神仙郷」の建築に着手(5月5日)
熱海市春日町「東山荘」に移転(10月5日)。以後、夏は箱根、秋から春を熱海で過ごす
1945(昭和20年) 63歳
熱海市伊豆山大久保の土地を購入。以降、芸術世界のひな型瑞雲郷の造営を開始
「色絵桃花文皿 鍋島」(重文)を購入し、本格的な美術品の収集を始める
1946(昭和21年) 64歳「神仙郷」内に「観山亭」を建築(8月15日)
1948(昭和23年) 66歳秋には熱海の「東山荘」から、同じく熱海「碧雲荘」に移転
1950(昭和25年) 68歳世界救世教立教(2月4日)
「神仙郷」内に「山月庵」を建築
「樹下美人図」(重文)を購入し、海外流出を防ぐ
1951(昭和26年) 69歳東京日比谷公会堂において「真文明の創造」と題して講演(5月22日)
1952(昭和27年) 70歳箱根美術館開館(6月15日)
財団法人東明美術保存会発会(昭和57年にMOA美術・文化財団と名称変更(9月15日)
京都嵯峨野に平安郷の用地を入手。以降、造営に着手(10月18日)
世界ユネスコ本部に外務省情報文化局を通じて「湯女図」複製を寄贈(12月18日)
1953(昭和28年) 71歳箱根美術館別館建設(5月25日)
自然農法普及会発会(12月1日)
「手鑑 翰墨城」(国宝)を収集
1954(昭和29年) 72歳尾形光琳筆「紅白梅図屏風」(国宝)を収集(2月4日)
日本橋三越本店にて「肉筆浮世絵名作展」を開催(4月9日)
熱海「瑞雲郷」に水晶殿完成(12月11日)
1955(昭和30年) 73歳野々村仁清作「色絵藤花文茶壺」(国宝)を収集(2月8日)
熱海「碧雲荘」にて午後3時33分逝去(2月10日)
1957(昭和32年)熱海美術館開館(1月1日)
1982(昭和57年)MOA美術館開館
2002(平成15年)『岡田茂吉全集』全三六巻(1992~2002)
2015(平成27年)岡田茂吉記念館開館(京都 平安郷)(4月)