楚石梵琦墨跡 送別偈
データ
作者 | 楚石梵琦 |
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時代 | 中国・元時代 至正12年(1353) |
素材・技法 | 紙本墨書 一幅 |
サイズ | 31.2×82.2㎝ |
解説
楚石梵琦(琦楚石(きそせき) 1296~1370)は、月江正印(げっこうしょういん)とともに中国元時代の禅林を代表する大禅僧である。元の朝廷の信任が篤く、順帝より普照慧弁禅師の号を賜り、その説法の師となった。書法にこだわらない個性的な書の多い墨跡の中で、琦楚石の書は、元時代第一級の能書家趙子昻(ちょうすごう)(1254~1322)に習い形の整った本格的な書風である。この墨跡は、至正十三年(1353)周防国(山口県)香積寺開山石屏子介に与えられたもので、松江烏泥(上海の南西)の普門寺を創建した「信公懺首」という人物が、子介の力量を認め、普門寺の寺主に命じたことが記されているところから、普門寺へ出立するに際しての送別の偈と思われる。温和な筆致で行間のよく整った書風は、第一級の墨跡としての風格がある。琦楚石57歳のときの遺墨である。
(訓読)
尽(じん)十方世界。是れ一箇普門。入得と不入得と。甚(なん)の破沙盆(はさぼん)にか当たる。東海西来孤絶の処。有縁(うえん)に蹉過して無心に遇う、行住坐臥皆現成(みなげんじょう)。半満偏円指注すること休(や)めよ。来る者は他より来れ。去る者は它(た)より去れ。寒ければ紅葉を焼爛し、饑(う)ゆれば大紫芋(しう)を飱(くら)う。又誰かなんじに問わん。仏と祖と。貧と富と。朝と暮とを。度想(どそう)の衆生度す可き無し。青蘿直上(せいらちょくじょう)寒松樹。
石屏介蔵主は日東有道の士なり。万里西遊して知識に参承して得る所既に妙なり、以て人と為す可し。松江の烏泥(うでい)涯上に普門蘭若(らんにゃ)有り。廼(すなわち)信公懺首(せんしゅ)の置く所なり。榜して禅居と為して諸英衲を延(し)き、石屏に命じて之に主たらしむ。其の行に於て此を筆して餞(はなむけ)とす。
至正十三年冬前 本覚 梵琦
「○慧所説」白文方印 「鐘林晁山」朱文方印