展覧会
開館40周年記念名品展 第2部
2022.09.01(木) - 2022.10.25(火)
概要
創立者・岡田茂吉(1882~1955)の美術品収集は、第二次世界大戦後の混乱期に本格的に開始されました。岡田は、多くの美術品が諸外国に流出するのを憂いて心血を注いで収集し、また優れた美術品は荒廃した社会人心を陶冶するという独自の哲学を有し、高度の芸術文化国家の実現を願い美術館の建設を構想しました。
MOA美術館のコレクションは、岡田が蒐集した日本、中国をはじめとする東洋美術を中心に構成されています。その内容は、絵画、書跡、彫刻、工芸等、多岐にわたり、各時代の美術文化を語る上で欠くことの出来ない作品を含んでいます。
この度の開館40周年記念名品展の第2部では、コレクション中より伝銭選「花鳥図」、「青磁大壺 郊壇官窯」、重文「湯女図」、重文 勝川春章「雪月花図」、重文「阿弥陀三尊像」、重文「三角縁神獣鏡」をはじめとする中国絵画、中国陶磁器、風俗画、浮世絵、仏教絵画、青銅器等を展示します。
重文「湯女図」 江戸時代
近世に入り、庶民の風俗生活が主要な画題の一つになると、狩野(かのう)派などの正統派の技法を身につけたと見られる絵師ばかりでなく、次第にその主流が町絵師の手に移り、描写形式も、祭礼などの群衆描写から少人数の群像、さらに一人立ちの人物像へと変化していく。本図は、京や江戸で元和・寛永年間(1615~44)に流行した湯屋で働く六人の湯女を描いている。湯女は、初めは客の垢を流し髪を洗うのを仕事としたが、次第に容色を飾り、客の酒食の相手をするようになった。衣裳文様の華麗な美しさは、この時代の風俗画の特徴で、図中向かって左から二人目の湯女の着物に、篆字風の「沐」の字の柄が見られるのも興味深い。また、顔の生き生きとした表情は写実的であり、中央にふところ手をして闊歩する遊女を中心に、五人の女性を配した構図も見事で、これら湯女たちの街を連れ立って歩く描写は、のちの寛文期美人画に見られる優艶な理想化とは違い、生命力にあふれている。団家旧蔵。
青磁大壺 郊壇官窯 中国 南宋時代
中国で宮廷御用品を焼いた直営の窯を官窯と呼び、北宋時代には汝(じょ)官窯・北宋官窯があった。靖康2年(1127)、金の侵入を受けて南にのがれ、紹興八年(1138)に都を臨安(杭州)に遷して以降、すなわち南宋時代には、まず修内司(しゅうないじ)官窯、次いで郊壇窯(新官窯とも称される)が設けられた。新官窯は杭州市の南郊の烏亀山麓に設けられ、修内司官窯に劣らぬ優れた青磁を焼いた。付近に郊壇(皇帝が天を祭る壇)があったところから、郊壇下官窯あるいは郊壇官窯と称された。また素地が陶質であるため、釉の全面にわたって不規則な貫入(かんにゅう)が縦横に走り、その中にさらに細かい貫入が見られる、いわゆる二重貫入となり、それらが釉面に変化を与え、釉の色合いをいっそう引き立てている。本図の壺は郊壇窯としては稀に見る大作で、きわめて高い高台をもち、豊かな張りのある姿で格調が高い。碧玉を見るような釉色をし、手にとると意外なほど軽い。郊壇官窯の優れた作行きが凝縮しているのを見る思いがする。
伝銭選「花鳥図」中国 南宋~元時代
中国花鳥画の伝統は古く唐代に溯るといわれるが、それが小景の鑑賞画として完成するのは宋時代のことである。特に北宋時代末の徽宗(きそう)皇帝によって創られた画院の様式は、構図の安定、写生の徹底、余白の活用などを特色とし、静かな画趣が重んじられたが、南宋時代も進むと、画中の鳥獣の表現に動きが強調され、墨線が重視されるようになる。本図では、蜂をねらう野びたきの描写に、瞬時の緊張感が見事にとらえられており、梅樹や竹葉には、鋭く的確な線描が生かされている。色調に淡彩が目立つ点などから、南宋時代も末期以降の作と考えられる。
勝川春章 「雪月花図」 江戸時代(18世紀)
勝川春章(1726~92)は江戸中期の浮世絵師で、勝川派の祖。版画・版本にも優れた作品を多数残し、特に役者絵においては、それまでの鳥居派の典型を破って、写実的似顔絵を始めた。また、肉筆画の技量は浮世絵師中第一級と賞される。本図は、雪月花の三幅対を平安王朝の三才媛の見立(みたて)絵とし、これを当世市井の婦女風俗に描き替えている。向かって左の幅は、清少納言の「香炉峰の雪は簾(すだれ)をかかげて見る」という故事を、武家の奥方風の女性として描き、中央の幅は、武家の娘風の女性を、石山寺で机にもたれて筆をとる『源氏物語』の作者紫式部に見立てている。また、向かって右の幅は、「花の色はうつりにけりな いたづらに 我が身よにふる眺めせしまに」と詠んだ小野小町を、芸者として描いている。中央の幅の女性像は、衣裳などが彫塗りによる重厚な描き方であるのに対し、左右の幅では暢達な線描が実に軽妙で、江戸好みの髪型や衣裳の美しさが見事にとらえられている。
重文「阿弥陀三尊像」 朝鮮 高麗時代
阿弥陀如来(あみだにょらい)が観音(かんのん)・勢至(せいし)を従え、踏割蓮華(ふみわりれんげ)に立つ姿である。阿弥陀三尊や阿弥陀八大菩薩の歩行形は、高麗仏画では来迎(らいごう)を意味するもののようである。中尊の阿弥陀如来は左手の中指と親指を捻じて腹前に、右手を前に差し伸べ、観音は左手に水瓶、右手に柳枝を持ち、勢至は両手で経を持っている。いずれも肉身や相好は肌色で描かれる。阿弥陀如来の衣や両菩薩の天衣は、細密な手法によって薄物の質感が見事に描かれている。また、踏割蓮華を、中尊が青、勢至が紫、観音が芯の赤い淡青に描き分けているなど、中間色による色彩配合にも特徴がある。井上家伝来。
葛飾北斎 「二美人図」 江戸時代(19世紀)
葛飾北斎(1760~1849)は、『北斎漫画』や「冨嶽三十六景」などの版本・版画の大作で知られるが、肉筆の優作も数多く残している。北斎は、安永7年(1778)数え年19歳で肉筆画の名手勝川春章(しゅんしょう)の門に入り、浮世絵を学ぶ一方、狩野(かのう)派・琳派・住吉派などの画法を学んだ。本図は、北斎の美人画の中でも、人物の細面で柔和な表情と流暢で無駄のない描線、落ち着いた色彩などから見て、北斎画歴前半期の代表的な美人画ということができる。立姿の花魁(おいらん)に坐姿の女芸者を配した構図がよく、顔の表情や衣裳文様に北斎一流の手腕が見られる。落款および「亀毛蛇足」の朱文長方印より推定して、寛政年間(1789~1801)末から文化年間初めの頃、北斎四十歳代の作品と見られる。
花唐草七曜卍花クルス文螺鈿箱 桃山時代 16世紀
合口造り長方形の、足のついた黒漆塗りの箱で、蓋と身の四隅を二ミリほど低くして黄漆を塗り、唐戸面(からとめん)と呼ぶ洒脱な作りにしている。蓋表の文様は中央に花唐草を配して周囲を三重の境界線で囲み、その間に、七曜文帯、卍 (まんじ)文と花クルス文を交互に配した文様帯を入れている。文様は貝殻片を切り抜いて施した螺鈿で表されており、真珠光が黒漆に映えて美しい。工作技術が見事であり、漆塗りの調子も丁寧で、わが国の作とみて間違いない。しかし、蓋表中央に数花を相称形に配置した花唐草文様は、李朝の螺鈿に見られる様式であり、葉と蔓の曲線表現には南蛮風も加わっている。花クルス文は、おそらく切支丹の影響だろう。足付きの器形には、中国趣味が窺われる。この作品に以上のような異種の工芸様式が混在して見られるが、それは、大陸の文物や南蛮・切支丹の影響が強くおよんだ桃山時代の製作になるものゆえであろう。
「機織図屏風」 江戸時代(17世紀)
近世初期風俗画の特色として、それまでの伝統的な名所絵、職人絵などの形式を越えた自由な風景描写が見られるようになり、また人物描写への関心が高まり、特に女性像を画面に大きく描くという作風が生まれる。本図は、その代表的な作品として知られているが、機織という特定の職種に働く女性像を描いたもので、人物を大きく描き、焦点を女性たちに合わせている。画面全体に配された金雲が女性たちを取り巻き、前後の自然な空間を巧みに作り出している。また、衣裳や秋草は細緻な金泥(きんでい)の線を用いて表されており、画面の隅々まで繊細に配慮されていることがわかる。本格的な草花描写が見られるところから、この図は元和・寛永(1615~44)頃に活躍した岩佐派の画風を学んだ画家によって制作されたものと思われる。