展覧会

北斎と広重 冨嶽三十六景と東海道五十三次

2018.03.16(金) - 2018.04.24(火)

二大風景版画一挙公開

概要

北斎 「冨嶽三十六景」について

 「冨嶽三十六景」は、葛飾北斎(17601849)の出世作で、天保2年(1831)頃に版元西村永寿堂から順次発表され、最初に36図が完成し、後に10図が追加出版されたものと考えられている。通常、このシリーズは、表富士36図、裏富士10図の合計46図と言われている。
 本シリーズは、当時の富士信仰の盛行を背景に、斬新な構図や輸入品の科学顔料ベロ藍を用いた鮮やかな発色で人気を博した。その大きな特色は、庶民の働く姿がほとんどの場面で生き生きと描かれている点であり、また大胆奇抜な構図や機略縦横の演出が随所に見られる点である。北斎が手がけた膨大な作品群の中で、「冨嶽三十六景」は北斎芸術の集大成ともいうべき作品である。

冨嶽三十六景 深川万年橋下

深川万年橋下は、大川(隅田川)に注ぐ小名木川にかけられた橋で、この辺りは松平遠江守の屋敷や御籾蔵のあった所である。図は、太鼓のようにまるい橋を小名木川の水上から見あげ、大川を隔てて遠く富士を描く。両岸に連なる家屋には遠近法を用いているが、その描き方には北斎独特の誇張がみられる。

 

 本シリーズの特色は、江戸市中とその近郊の図が18図あり、いずれも庶民の生活とともに街の雑踏の間から望む富士が描かれている。「江都駿河街三井見世略図」の屋根屋職人、「隠田の水車」は百姓の働く姿を富士に結びつけている。「甲州石班澤」の巌頭の漁師、「遠江山中」の木こりなど、北斎の働く人々への深い共感が示されている。こうした画中の人物描写は、北斎が長い挿絵生活や絵手本制作を通して鍛えあげたもので、すでに「北斎漫画」の中に多く取り上げられている。

冨嶽三十六景 江戸駿河町三井見世略図

越後屋三井呉服店は、今の三越百貨店の前身で、日本橋の北側、現在の室町三丁目にあった。越後屋は当時大いに繁盛した店で、図中看板には「呉服物(品々)」「組物糸(品々)」と「現金 無掛直」の文字も見える。図は、視点の位置を高くとり、屋根職人の働く姿を生き生きと描いて、庶民の日常生活に結びついた富士である。

 

冨嶽三十六景 隠田の水車 

 穏田は、現在の原宿から青山にあたるが、当時は閑静な田園地帯で、渋谷川に沿ってつくられた水車が、江戸名所のひとつになっていた。図は、水車を大きく描き、霞のかなたに遠く富士をみせ、ここでも穀物を運ぶ男や米をとぐ女など働くものの姿を描く。また水流表現には、北斎特有の形式化がみられる。

 

冨嶽三十六景 甲州石班澤

 石班澤は、現在の鰍沢町(山梨県)のことで、笛吹川と釜無川が合流して富士川となるところである。この富士川は日本三大急流のひとつで、その激しい川の流れをあたかも海の怒涛のようひ表現している。図は、子供連れの漁夫の網打つ姿を描くが、この辺りから実際には富士を見ることはなく、図中の富士も輪郭線で略図風に描かれている。

 


冨嶽三十六景 遠江山中

 遠江山中とは、天竜川や大井川の支流が発する山奥のことと思われる。図は、斜めに大きく描いた材木の上で木を挽く樵夫を中心に、山の中の樵夫一家の働く姿を描く。図のように対角線上いっぱいに構図をとる方法は、北斎特有の造形美である。

 第2の特色は、北斎ならではの奇抜な構図や機略縦横の演出である。大きな桶の枠を通して富士を望む「尾州不二見原」、寺院の屋根と富士の三角形の相似形の配列を見せる「東都浅草本願寺」、対角線上に構図をとった「常州牛久」、垂直線を強調する樹木の間から富士を見せる「東海道保土ヶ谷」などである。また「凱風快晴」のように自然から受けた感動を演出した作品、逆巻く怒涛の間から富士を望む「神奈川沖浪裏」、橋の形態に関心を示した「深川萬年橋」など、長い間持ち続けた構想を発展させている。

 

冨嶽三十六景 尾州不二見原

 尾州不二見原は、現在の名古屋市中区富士見町と思われるが、富士を遠望できる西眼の地である。図は、大きな桶枠と三角の小さな富士との幾何学的な組合わせに、北斎の奇抜な趣向がうかがわれる。また、北斎特有の飄逸とした表情の桶屋職人は、すでに「北斎漫画」第三編に描かれている。

 

冨嶽三十六景 凱風快晴

 三十六景中の最高傑作で、俗に「赤富士」の名で呼ばれている。藍・緑・褐色の単純な色彩で、富士の限りない偉容と迫力を遺憾なく表現している。図は、南風を受ける晴れやかな早朝の富士である。

 

冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏

 波の画家北斎の名を生んだ名作である。逆巻く怒涛がその波裏をみせ、今にも崩れ落ちようとしている下で、必死の力漕をみせる漁船、富士はその浪間から静かに顔をのぞかせる。自然の力と人間、静と動、また奇抜で思い切った構図は、北斎にしてはじめて描き得たものである。

 

葛飾北斎について

 北斎は、宝暦10年(1760)江戸本所割下水に生まれた。若くして木版彫刻を学び、安永7年(1778)に勝川春章に入門、役者絵等を手がけたが、狩野融川について狩野派を学んだ事が発覚して、同派を追われたという。その後、住吉内記について土佐派を、堤等琳について琳派を研究した後、俵屋宗理の門をたたき、二代目宗理を襲名した。北斎はこの他にも、中国・明清画や洋風画を研究するなど諸派の画法を学び続け、北斎、戴斗、為一、卍など、生涯に三十数回の改名を繰り返しつつ、その度に画風を変化させていった。また、浮世絵版画をはじめとして、肉筆画、挿画、漫画まで手がけ、制作の対象も役者絵、美人画から花鳥画、風景画などに及んでいる。北斎の90年の一生は、画狂人の号が示すように、絵筆で描けるものは何でも描きつくそうと努力を重ね、貧困に苦しみながら、たえず画業の向上を願った生涯であった。

 

広重「東海道五十三次」(保永堂版)について

 歌川広重(1797~1858)は、天保3年(1832)36歳の夏、徳川幕府の八朔御馬進献の一行に随行して東海道を江戸から京へと旅した。江戸へ帰った広重は、翌年、版元保永堂から55枚に及ぶ揃物「東海道五十三次」を刊行した。保永堂は小さな版元であったため、一部分を仙鶴堂(鶴屋喜右衛門)が、合梓ないし単独版行を受け持った。このシリーズは大人気を博したため、保永堂を一躍、一流の版元に押し上げるとともに、広重を浮世絵風景画家の第一人者に押し上げた。
 「東海道五十三次」の魅力は、宿駅の様子はもとより、道中の風物や風景、旅人の様子などを細かく写し、版画を見る者に、その臨場感を与える点にある。また各図の風景は、実景のように見えて、必ずしもそうでない。有名な箱根や蒲原、庄野の図は、今日それらしい場所を見出すことはできない。吉田、鳴海の図は、広重が宿駅を通り過ぎながら受けた印象を実感にとらわれずに、心の中で組み立てた風景画であろう。

東海道五十三次 箱根

 箱根越えは、東海道中の最難所として、行き交う旅人を悩ませた。この図は、箱根の名勝芦の湖畔の美しい風景で、険しい山間の坂道を、大名行列が越えて行く光景が細密に描かれている。

 

 東海道五十三次 蒲原

 富士川を渡ってしばらく行くと蒲原の宿である。雪が音もなく降りしきる夜更けに、蓑を着た人、傘をかざした人も寒そうに坂を歩いて行く。雪の夜の深々とした静けさを印象深く表現した作品である。

 東海道五十三次 庄野

 庄野は石薬師から鈴鹿川べりに出て、しばらく遡ったところである。図は宿場近くの景と思われるが、激しいにわか雨に襲われた街道の様子が描かれている。

 2の特色は、見る者に季節感と深い旅情を感じさせる点である。雪景の蒲原・亀山、雨景の大磯、庄野、土山、風を感じさせる掛川、四日市などである。また時刻も朝の景の日本橋、品川、三島、原、見附、夕暮れの沼津、御油、石薬師、夜の景の蒲原、宮など、旅情を誘う画面が随所に描かれ、時刻の変化等を巧みに画面に取り入れている。広重は、街道の風物や旅人の様子を細かく描写するとともに、春夏秋冬や晴、雨、雪、霧、風等の気象の変化、時刻の変化等を巧みに画面に取り入れ、臨場感をもって季節感や深い旅情を表し、江戸庶民の旅への憧れをかきたてた。日本人の心情に訴える抒情的な風景版画を創造した広重の作風は、その後も国内外に大きな影響を与えることとなった。

 東海道五十三次 亀山

 鈴鹿川に沿ってのぼれば亀山である。雪の朝のさわやかな景色で、亀山城の前を通り過ぎて行くのは、大名行列であろう。

 東海道五十三次 土山

 鈴鹿峠を越えて山を下ると土山の宿に入る。鈴鹿峠越えは、よく雨に降られることで知られ、図も雨の中、田村川沿いに旅の一行が通り過ぎて行く景を描いている。

 東海道五十三次 四日市

 四日市の宿近くを流れる三重川のあたりであるが、海岸に近いこの地方の風の強さが、2人の人物の動作や草木の動きによりよく表わされている。

 

江戸時代の東海道と旅

関ヶ原の戦終結直後の慶長6年(1601)、徳川家康は全国統一政策の一環として交通路整理に乗り出し、東海道に宿場を設置した。その後も幕府によって、五街道と呼ばれた東海道、中山道、日光道中、奥州道中、甲州道中などの整備が継続されるが、なかでも京と江戸を結ぶ東海道は最も重要な街道とされた。
 江戸時代初期の東海道は、幕府と朝廷間の公式儀礼の一行をはじめ参勤交代の大名行列、朝鮮通信使なども行き通い、幕府外交の舞台ともなっていた。時代とともに宿駅の施設も整備され、沿道では特産物も売られ、物資の流通、文化の伝播に大きな役割を果たすようになる。
 江戸時代中期になると、生活に余裕の生まれた庶民の旅も多くなり、宿場には庶民の利用する旅籠屋が立ち並び、街道にそった名所旧跡にも多くの人が訪れるようになった。
 こうした旅の隆盛から、東海道を描いた地図や地誌、道中記、読み物などが続々と刊行され、なかでも享和2年(1801)に発刊された十返舎一九の『東海道中膝栗毛』は大流行することになる。その影響もあって、文化・文政年間(1804~1830)には一大旅行ブームが巻き起こり、成田や大山・江の島などの江戸近郊の旅行に飽き足らず、伊勢参りや金比羅参りなどのいわゆる生涯一度の大旅行への憧れが高まった。
 東海道は、日本橋から京都まで120余里(約490km)あり、その間に53の宿駅が置かれ、箱根と新居には関所が設けられた。箱根、鈴鹿などの峠、大井川、天竜川などの大河川、伊勢湾の渡海などの難所もあり、決して楽な旅ではなかった。当時の旅は、早朝4時頃に宿を出発し、男性で10里前後(約40キロ)歩くのが標準だったようで、大体10日から14日間ほどで江戸から京都を歩きとおした。また、公儀の文書を急いで運ぶ継飛脚は、約3日間で走ったといわれる。

本展では、「冨嶽三十六景」 全46枚と保永堂版「東海道五十三次」 全55枚を全期間公開します。二大絵師による屈指の名作をこの機会にご堪能ください。

東海道五十三次 日本橋

 日本橋は京都まで120余里(およそ490km)、東海道五十三次の起点である。橋の手前56人の魚屋が早朝の肴市から買い求めた魚をかつぎ、橋の上を大名行列の先頭が渡って来る。あわただしい朝の日本橋界隈の情景が描かれている。

東海道五十三次 京師

 加茂川にかかる三条大橋を渡れば京都である。当時、江戸・京都間を普通に歩けば十数日の行程であった。図は、三条大橋を八朔御馬献上の行列が渡っている様子で、遠くには東山三十六峰と比叡山が描かれている。

 

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