展覧会

吉田博木版画の100年

1970.01.01(木)

概要

吉田博(1876-1950)は、明治から昭和にかけて、水彩画、油彩画、木版画の分野で西洋画壇を牽引した画家として知られています。44 歳で自身の下絵による木版画が出版された後、49 歳にして初めて自身の監修による木版画の作品を発表し、西洋の写実的な表現と日本の伝統的な木版画技法を統合した新しい木版画の創造をめざしました。
本年は、博が本格的に木版画制作を開始するきっかけとなった、大正12年(1923)の外遊から100年になります。この旅で日本の伝統を生かした新しい木版画の必要性を実感した博は、帰国後初めて監修した木版画「米国、欧州の部」シリーズを発表し、後半生は油彩画と並行して木版画の制作に情熱を傾けました。
この度の展観では、100年経過してもなお国内外で愛される吉田博の木版画約70点を紹介します。

みどころ


世界を旅した博の代表的な木版画作品を展示
若くして海外に渡り、欧米には3回、合計7年間を超える外遊で、初めての私家版木版画「米国シリーズ」や、「欧州シリーズ」を手掛けました。昭和5年(1930)には長男遠志と共にインド・東南アジアへの写生旅行を行い、昭和12年(1937)には、朝鮮・満州の木版画を発表するなど、世界を旅した博が捉えた美しい海外の風景の数々が木版画に表現されています。
また、登山家でもある博が毎夏登った日本アルプスを主題とした「日本アルプス十二題」、刻一刻と変化する海を捉えた「瀬戸内海集 帆船」など代表作品を展示。
さらに高精細の作品映像を投影し、精巧に表現された博の版画をお楽しみいただきます。

「米国シリーズ グランドキャニオン」  
吉田 博 1925 (大正14)年

「米国シリーズ レニヤ山」  
吉田 博 1925 (大正14)年

「米国シリーズ エルキャピタン」  
吉田 博 1925 (大正14)年

「欧州シリーズ ヴェニスの運河」  
吉田 博 1926 (大正15)年

「欧州シリーズ スフィンクス」  
吉田 博 1925 (大正14)年

「欧州シリーズ スフィンクス 夜」  
吉田 博 1925 (大正14)年

「日本アルプス十二題 劔山の朝」 
吉田 博 1926 (大正15)年

「日本アルプス十二題 鷲羽岳の野営」 
吉田 博 1926 (大正15)年

「印度と東南アジア タジマハルの朝霧 第五」  
吉田 博 1932 (昭和7)年

「印度と東南アジア ヴィクトリア メモリヤル」  
吉田 博 1931 (昭和6)年

「瀬戸内海集 帆船 (左から朝、霧、夜)」  
吉田 博 1926 (大正15)年

超絶技巧 博独自の木版画技術
博は、浮世絵の高度な技術を現代に活かしながら、油彩画のタッチと水彩画の色彩表現を用いた洋画技法で、未開拓の新しい木版画を創造しました。

中でも、他に類をみない摺の多さが特徴の一つで、平均30回、多い時は100回近く摺を重ねることで、豊かな色彩を生み出し、博が実際に体感した自然の質感や立体感、空気感を表現しています。

本展では、96度摺の「陽明門」や、88度摺の「東京拾二題 亀井戸」を展観します。

「陽明門」 
吉田 博 1937年(昭和12)

「東京拾二題 亀井戸」 
吉田 博  1927(昭和2)年

通常の倍近い特大版
木版画では摺の際、紙に水分を含ませるため、特大の紙は伸縮が大きくなり、ずれが生じやすくなりますが、「富士拾景 朝日」(53.3×71.2)「雲海 鳳凰山」(54.5×82.7)は、この点を克服した迫力あふれる大作です。「朝日」は版木の展示も行います。

「冨士拾景 朝日」 
吉田 博 1926 (大正15)年

「雲海 鳳凰山」 
吉田 博 1928 (昭和3)年

自刻自摺
彫りや摺は優秀な職人を使いながらも常に傍で厳しく指導して監修にあたり、そのようにして完成した作品には「自摺」の刻印を押しています。職人を指導するために自分自身も職人以上の技術を身につけなければならないとして「東京拾二題 中里之雪」、「印度と東南アジア フワテプールシクリ」、「帆船 朝」は一部自ら彫刻刀を握った作品です。

「東京拾二題 中里之雪」 
吉田 博  1928(昭和3)年 個人蔵

(c)2023 YOSHIDA HIROSHI TRUST

印度と東南アジア フワテプールシクリ「印度と東南アジア フワテプールシクリ」 
吉田 博  1931(昭和6)年 個人蔵
(c)2023 YOSHIDA HIROSHI TRUST

吉田博について


吉田博(1876–1950)は、久留米藩士・上田束の次男として、 久留米市に生まれました。18 歳で上京して小山正太郎 (1857-1916)の主催する画塾・不同舎に入門し、本格的な画業を開始しています。明治 32 年(1899)、23 歳の時、描き溜めた水彩画を携え、 1か月分の生活費のみを持って、後輩・中川八郎とともに決死の渡米を行いました。この時、デトロイト美術館等での展示即売会の大成功によって資金を得て、ヨーロッパも巡って 2 年後に帰国しています。さらに 2 年半後には、のちに夫人となる義妹ふじをと共に再び渡米し、3年以上をアメリカ、 ヨーロッパで過ごしました。これらの外遊によって古今の西洋美術に触れると共に大いに画技を磨き、日本最初の洋画団体である太平洋画会の中心人物として活躍しました。大正 9 年(1920)、44 歳の時、版元渡邊庄三郎との出会いにより、初めての木版画「明治神宮の神苑」を出版しました。 当初は版画の下絵を制作する程度でしたが、関東大震災後、 被災した太平洋画会会員の作品販売を目的に渡米した際、米国で日本の版画が大変な評判であることを知り、自ら習得した西洋の写実的な表現と日本の伝統を生かした新しい木版画創造の必要性を実感するに至りました。帰国した大正 14 年 (1925)、49 歳の時、初めて自ら監修した木版画の作品を発表し、その後の後半生は油彩画と並行し木版画の制作に情熱を傾けました。

その他の展示作品


「欧州シリーズ ユングフラウ山」 
吉田 博 1925 (大正14)年

 

「欧州シリーズ ルガノ町」 
吉田 博 1925 (大正14)年

 

「日本アルプス十二題 穂高山」 
吉田 博 1926 (大正15)年