広重「東海道五十三次」 Digital Remix 作品解説
作品解説 索引
■広重「東海道五十三次」Digital Remix
■その他のコレクション
東海道五十三次
1、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
日本橋 朝之景
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
橋を横から捉え湾曲した橋梁を描く従来の構図ではなく、橋を正面から捉えている。朝焼けの空を背景に、橋の向こうから大名行列が現れる緊張感や朝の日本橋界隈の活気がよく伝わってくる。
2、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
品川 日之出
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
早朝、日本橋を出発した旅人が最初の宿場・品川に至って日の出を迎えるという趣向であろうか。朝焼けのもと、宿場に向かう大名行列を背後から捉えている。江戸湾には、帆をあげる弁才船が存在感を示している。
3、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
川崎 六郷渡舟
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
多摩川の渡し船の様子を描いている。船頭が竿を持ってふんばる船の上では、煙管をふかす者、話をする女性たち、荷を結び直す人など、のどかな情景が描かれている。右手遠方には雪化粧の富士も見える。
4、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
神奈川 臺之景
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
海沿いの高台の景色である。坂道に沿って茶屋が並び、路上には、厨子を背負った六部や巡礼の親子、客引きの女性に手を引かれる旅人の様子が描かれる。海上の船の手前にみえる藍の線による波の表現が優れている。
5、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
保土ヶ谷 新甼橋
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
宿場へ向う入口にかかっていた帷子(かたびら)橋附近である。駕籠(かご)に乗った武士の一行や編笠をかぶった虚無僧(こむそう)が橋を渡り、橋の向こうでは二八そばの看板の前で立ち話をする女性たちやこれから橋を渡ろうとする一行がみえる。
6、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
戸塚 元甼別道
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
床机を踏み台にし、バランスをとりながら軽尻から降りる男、杖を持った手で傘の緒を緩める女性、橋を渡る老人など、宿に着いた安堵感が伝わる。中央の道標に「左かまくら道」とあり、鎌倉への分かれ道とわかる。
7、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
藤澤 遊行寺
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
遠景に描かれるのが、遊行寺の名で親しまれる時(じ)宗(しゅう)総本山清(しょう)浄(じょう)光(こう)寺(じ)である。手前の鳥居は、杉山検校が管鍼法の着想を得たと伝わる江の島弁財天の一の鳥居で、本図でも鍼灸・按摩に携わる人々の参詣が描かれる。
8、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
平塚 縄手道
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
蛇行する田んぼ道(縄手道)で、空の駕籠(かご)と棒を担いだ二人組と飛脚(ひきゃく)がすれ違う。地平線を低くとり、左の丸い高麗山、右手のゴツゴツした大山、中間の富士という三者三様の山を強調している。
9、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
大磯 虎ケ雨
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
副題の「虎ヶ雨」は、曾我兄弟の仇討ちの日に、曾我十郎祐成に愛された大磯の遊女虎御前が彼の死を悲しんで流す涙が、雨となって降るという伝説による。街道は雨模様であるが、対照的に沖合は陽を受けている。
10、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
小田原 酒匂川
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
酒匂川の徒歩渡しを描く。川の中央には中高欄輦台がみえ、十数人の人足で担ぐ他、四人で運ぶ平輦台や、より安価な肩車も描かれる。遠景には右に小さく小田原城が、その奥にはごつごつとした箱根連山が表されている。
11、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
箱根 湖水圖
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
箱根・芦の湖畔の美しい風景であるが、難所を強調し、箱根の山を異様な高さに誇張して描く。岩肌は色とりどりに描きわけ、モザイクのように表現している。険しい山間の坂道を、大名行列が下る光景もみえる。
12、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
三島 朝霧
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
三島明神(三嶋大社)の鳥居を右側に描き、その前を朝霧に包まれて過ぎ行く駕籠(かご)と馬上の旅人を描く。鳥居、樹木、家並みなどを濃淡の墨と青のシルエットとすることで、朝霧に包まれる雰囲気を見事に表現している。
13、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
沼津 黄昏圖
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
中央に描かれた満月が、道を宿へ急ぐ旅人を照らす。白装束に、奉納用の天狗面を背負うのは金比羅詣の人物で、その前は比丘尼(びくに)と小(こ)比(び)丘(く)尼(に)と思われる。旅人を背後からとらえた視線とあわせ、侘しさが伝わる作品である。
14、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
原 朝之富士
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
富士の山頂は枠外に突き抜けてその威容を強調している。旅人は揃いの塵よけを羽織った女性二人と供の三人で、女性たちは富士を仰ぎ見ている。湿地に佇む二羽の鶴が画面を緩める効果を高めている。
15、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
吉原 左富士
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
江戸から京都へ向かう時、富士は通常は右手に見えるが、この吉原だけは、道が大きく右に曲がり北上するため、一時的に左手に見え、「左富士」として名所となっている。馬上の子どもの目線が富士へ導いている。
16、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
蒲原 夜之雪
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
蒲原は温暖な地であるが、本図では雪の情景を描いている。右の蓑に雪をうけ、背中をまるめた人物や左の番傘に顔を隠した杖をつく人物の様子から、夜更けの雪道における寂寥感が伝わってくる。
17、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
由井 薩埵嶺
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
険しい崖から富士を望む薩埵峠を描く。右に駿河湾を、左に崖や人物を配した構図である。崖の上でやや腰がひけながらも富士の絶景を楽しむ旅人に対して、素知らぬ顔で山道を歩く地元の樵夫(きこり)を対照的に描写している。
18、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
興津 興津川
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
力士と思われる巨漢を運ぶ興津川の渡しである。四人の駕籠(かご)かきによって運ばれる力士が不安げに川面に目をやるのに対し、乗掛馬の力士は悠々としている。皴が刻まれ、大きく突き出た岩塊が画面に変化を与えている。
19、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
江尻 三保遠望
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
近景に清水湊の屋根の連なりを、遠景には愛鷹山を描く。中景が三保の松原で、海上には多くの帆船が航行している。船の上に点描の人影がみえるが動きはなく、本図はシリーズ中唯一の純然たる風景画と言える。
20、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
府中 安部川
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
安倍川を渡る人々の様子を描く。手前から渡るのは女性3名と供で、駕籠(かご)を括(くく)りつけた平(ひら)輦(れん)台(だい)、人だけを乗せた平輦台、肩車と、様々な方法が見える。供の背中の丸に竹の白抜きは、版元保永堂の主人・竹内孫八を示す。
21、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
鞠子 名物茶店
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
「名物とろろ汁」の看板のある茶店で二人連れが食事をとる様子は、弥次さん喜多さんの旅を描いた十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の一場面を意識したものであろう。梅がほころぶ、のどかな春の情景である。
22、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
岡部 宇津之山
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
左右に山が迫って、道の狭さや寂しさが強調されている。向こうから来る薪を背負った三人のうち、奥の人物は胸から下が隠れており、峠の起伏を感じさせる。シリーズ中唯一、仙鶴堂鶴屋喜右衛門単独による版である。
23、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
藤枝 人馬継立
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
宿駅には問屋場と呼ばれる中継所で荷物を運ぶ人足や馬を斡旋していた。ひと仕事終えた人足や荷を馬に積む者の姿を対角線上に描き、街道沿いの様子とあわせて「逆くの字」となる構図である。
24、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
嶋田 大井川駿岸
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
大井川は人足による渡しのみで、道中屈指の難所であった。本図は駿河側から遠江側に渡る大名行列の一行を俯瞰(ふかん)で描いている。100人以上の人物の動きが、生き生きと丁寧に表現されている。
25、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
金谷 大井川遠岸
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
嶋田に続き、本図は遠江側の岸を描いている。色とりどりに描かれた遠方の山並みの中腹にみえる集落が金谷宿である。大井川は増水すると渡ることができず足留めとなるため、両岸の宿場は大いに賑わいを見せたという。
26、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
日坂 佐夜ノ中山
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
小夜ノ中山峠は急な坂道が続く難所の一つであるが、本図ではその坂を極端に誇張して描いている。道の中央に描かれる大きな丸石は、「夜泣石」の伝説で知られる石で、そこを通る人々が見入ったり頭を下げたりしている。
27、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
掛川 秋葉山遠望
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
秋葉権現のある秋葉山を遠景とし、土地の名物である遠州凧を画面から突き出すように表している。橋の上では、老僧に会った旅人が深々と頭をさげ、その後ろでは子どもが踊るような動きをみせている。
28、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
袋井 出茶屋ノ圖
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
簡素な出茶屋で、木の枝からぶら下げたやかんが石を組んだ竈(かまど)にかかり、煙があがっている。左手には茅葺きの屋根の下で煙管をくわえる飛脚が座して、関札の上にとまった鳥に目を向けている。
29、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
見附 天竜川圖
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
天竜川の中洲の様子を描いており、手前では船頭2人が中洲におりたった一行をゆったりと待っている。向こうの川は霧にかすみ、遠景の山の木々のシルエットが墨の濃淡で表され画面に変化を与えている。
30、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
濱松 冬枯ノ圖
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
焚き火にあたる人々の様子を中心とした図で、地面は下向きの弧線で表し、やや右よりに伸びる木と立ち昇る煙が画面を左右に二分している。木の左側では背中を丸出しにして火にあたる男が煙草の煙もあげている。
31、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
舞阪 今切真景
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
明応7年(1498)の大地震によって浜名湖と遠州灘とがつながった場所で、以降舟渡しとなって「今切の渡し」と呼ばれた。近景には舟に張られた粗末な筵の帆が目をひき、実景には無い山々が本図では存在感を示している。
32、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
荒井 渡舟ノ圖
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
「舞坂」に続いて「今切の渡し」が描かれ、向こう岸に荒井(新居)の関所が見える。中央の船は大名の御座船で、吹流しが勢いよくたなびいている。手前の船では大あくびをする男のユーモラスな姿が画面を和ませている。
33、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
白須賀 汐見阪圖
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
遠州灘を見渡す汐見阪の絶景を描く。街道では大名行列が東に向かって歩いている。2つ並んだ赤い挟箱には広重の「ヒロ」を図形化した印が見え、本シリーズに散見される遊心あふれる仕掛けの一つとなっている。
34、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
二川 猿ヶ馬場
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
柏餅を名物とする猿ヶ馬場の小松生い茂る様子を描く。茶店に向かう人物は瞽(ご)女(ぜ)と呼ばれる盲目の芸人達で、諸国を旅して芸を披露しながら生計を立てていた。前の2人は三味線を、後ろの女性は琵琶を背負っている。
35、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
吉田 豊川橋
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
橋では大名行列がわたり、向こう岸には町並みが描かれている。画面右は吉田城で、櫓(やぐら)の上方で右手をかざして遠くをみる職人のユーモラスな動きと屋根の上で壁を塗る左官達の勤勉な様子が対照的である。
36、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
御油 旅人留女
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
夕暮れ時、旅人を引き止めようとする激しい客引きの様子をユーモラスに描いている。旅籠内の札には「東海道続画」「彫工治郎兵ヱ」「摺師平兵衛」「一立斎圖」とあり、彫師や摺師の名前がわかる貴重な図である。
37、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
赤阪 旅舎招婦ノ圖
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
本シリーズ中唯一旅籠の室内を描いた図である。中庭のソテツをはさんで左側では、寝転んでくつろぐ客に夕飯を運ぶ女性や按摩が見え、廊下にはひと風呂浴びた客が歩いている。右側では招婦と呼ばれた飯(めし)盛(もり)女(おんな)が化粧をしている。
38、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
藤川 棒鼻ノ圖
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
「棒鼻」とは牓(ぼう)示(じ)杭(ぐい)と呼ばれる棒が立つことから宿場の境界のことを指している。本図では馬を献上するための行列とそれを下座して迎える役人らの様子を描いている。役人の側で遊ぶ3匹の子犬が緊張感を和らげている。
39、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
岡崎 矢矧之橋
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
東海道随一の長さを誇った矢作橋を横幅いっぱいに描いた図で、橋をわたった先にみえるのは岡崎城である。橋をわたる大名行列の一行からは、徳川家康が生誕した幕府の要所である岡崎城を目前にする緊張感が伝わってくる。
40、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
池鯉鮒 首夏馬市
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
首夏は陰暦の4月を指し、この土地ではこの時期、古来より馬市が行われた。向こうに見える松の下で、馬の値を決める交渉が行われており、そのためこの松を談合松と呼んだ。草が風に揺れる様子が初夏の清々しさを感じさせる。
41、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
鳴海 名物有松絞
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
有松絞は木綿などを藍や紅に染めた特産品である。街道沿いに2軒の店がみえ、店先には浴衣や手ぬぐいなどが吊るされている。やや坂になった街道を、軽尻、駕籠(かご)、徒歩など様々な方法で旅するのは全て女性である。
42、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
宮 熱田神事
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
宮宿は熱田神宮の門前町で、右にその鳥居を描いている。近隣の町から馬を引いて走らせ熱田神宮に奉納する「端午馬の塔」を主題とし、先頭の男の表情や手のひらをひろげた動きなど、勇壮な神事の様子が伝わってくる。
43、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
桑名 七里渡口
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
宮から桑名までの海路は、その距離から「七里の渡し」と呼ばれた。図は桑名の港で帆をおろす2艘の舟と桑名城を描く。波の動きや色彩に変化をつけ、水面が光に反射する様子を白抜きの点描で表すなど、細やかな配慮がみえる。
44、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
四日市 三重川
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
右の人物の合羽、柳の動き、飛んだ笠を追いかける旅人のユーモラスな姿等、一見して強い風の存在を感じさせる。背を向けあった二人の様子は対照的で、見知らぬ者同士がすれ違う旅の一場面を見事にとらえている。
45、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
石薬師 石薬師寺
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
石薬師寺は、弘法大師が大石に刻んだ薬師如来像を本尊とする名刹で、手前の田圃の縄手道の突き当りに門が描かれる。背後の山並みは、緑、墨、青と三段に、ぼかしを巧みに取り入れながらあらわされている。
46、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
庄野白雨
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
突然の夕立(白雨)に、雨宿りの場所を求めて坂道を走る人々の様子を描く。風に揺れる竹藪を墨の濃淡によるシルエットで表し、空間の奥行きを見事に表現している。右の人物の傘には「五十三次」「竹のうち」の文字がみえる。
47、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
亀山 雪晴
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
すっきりと晴れ渡った雪景色で、青の一文字が冬の引き締まる空気を、山際のピンク色が朝焼けをよく表している。右上に亀山城がみえ、その下の急な坂道を大名行列が登っていく。雪景と空とを対角線で区切るように構成している。
48、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
關 本陣早立
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
本陣とは大名などの貴人が宿泊する施設で、あたりがまだ暗い早朝、出発準備の慌ただしい様子を描く。張り巡らされた幔幕や提灯に記された定紋が目を引くが、これは広重の父方の実家の姓「田中」を図案化したものである。
49、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
阪之下 筆捨嶺
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
筆捨嶺は左の奇岩怪石が密集したような山で、絵師狩野元信がこの山をうまく描けず、山に筆を捨てたとの言い伝えによる名である。茶店の下は谷となっており、緑色のぼかしを入れて、山と茶店の距離感を巧みに表現している。
50、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
土山 春之雨
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
手前に川の急流と大名行列の先頭を、反対側に静まりかえった家屋を描く。しとしとと降る雨の図で、うつむき加減の人物がさらに陰鬱さを感じさせる。全体の暗い色調の中、赤と緑を交互に繰り返す合羽の色彩が際立っている。
51、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
水口 名物干瓢
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
水口名物の干瓢づくりを描いており、赤子を背負う女性が青いユウガオの実を運び、次の女性が実を削り、手前の女性がそれを干している。街道を旅する人物が地元の様子と対比的に描かれている。
52、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
石部 目川ノ里
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
目川では、ご飯に大根の葉を炊き込んだ菜飯と味噌田楽とをあわせた菜飯田楽が名物であった。図中には「いせや」という菜飯田楽の店がみえ、店の様子を眺める馬子や店の前で酔っ払って踊る人物などが描かれている。
53、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
草津 名物立場
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
名物「姥が餅」を出す茶屋のゆったりとした様子と対照的に、手前の街道では大きな荷を運ぶ4人の人足と、5人がかりの早駕籠とが、まさにすれ違っている。徐々に京へ近づき、活況を呈す街道の様子が伝わってくる。
54、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
大津 走井茶店
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
琵琶湖に面した大津は、物流の要所として栄えた。名物の「走井餅」を出す茶店など家屋を三戸並べ、さらに連なって行く牛車を描いている。牛にかけられた幌や店の前の湧き出る清水など、盛夏における涼し気な様子を表している。
55、東海道五拾三次之内 (保永堂版)
京師 三條大橋
歌川広重/江戸時代 天保4~5年(1833~34)
京師は都を表す漢語で、京都をさす。支柱構造の連なりを強調して描いた三條大橋の上では、被衣をかぶった女性や茶筅売りなどが見え、都の賑わいを示している。鴨川の向こうでは、密集する家屋や山々が色とりどりに描かれている。